※音声ではタイトルが不明になっていたが、おそらく特別奉修委員の御理解と予想されます。
昭和50年02月23日 特別奉修委員
「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさという」今朝の御理解を頂いて、信心を頂いておっても、今だ教えは頂いておるけれども、その教えが果たして生活の上にかいしたお役に立っていない。だから真の道も本当に解らないと言うのが、まあ多くのお道の信心しておる人の、まあ姿だろうとこう思うんですけれども。信心をさせて頂いておる者とない者の違いというのは、丁度手すりのある橋を、渡るのと、手すりのない橋を渡るのと様なものだと言う風に言われておりますね。
手すりがある長い橋を渡るのに、一生なら一生という橋を渡るのに、手すりがないという、何んでもない平穏無事な時には、それでも結構渡ってますけれども、さあ雨だ風だとこう風でも強なって来ると、此処に危ないそこに落込みはせんだろうかと、不安があのまあ募って来るそう言う生活と、手摺がある手摺があるから大丈夫。とこう安心して一生を送って行けれるという、その位の違いがあるんだと言う訳ですけれども。
今あの皆さんのお届けをさせて貰いよりましたらね、長ぁい手摺にね片一方の方だけ手摺が付いてるんですよ。そしてその、だから片一方の手摺のある方へこう寄ってね、あの行って、あの行きよる所を頂くんです。まあお互いの信心が、本当いうたら両方の手摺がある橋、もうそれこそどんなに吹いて来ようが、降って来ようが、手摺があるから落ち込みはせんとこう安心して、その行けれる信心を頂くのが、理想ですけれども、まあ私共の場合は、片一方のね手摺がある位な。
まあ安心のおかげではなかろうかとこう思いますね。ですからその片一方の手すりの方へよってから一生懸命歩いておる時にゃ安心です。けれども此の手摺から少こし離れるともうそこに不安が生まれてくる、ね。もう例えば一日例えば皆さん達の場合なんか、一日お参りしないと、もう何にもない時には何でもないけれど、何かあった時にゃはあこりゃー今朝からお参りしとらんやったけんじゃなかろうかと言った様にね。
すぐ不安な方へ心が動く様な、又そこに今朝からの御理解の内容ではないですけれども、本当にあのう自我を滅却すると言った様な信心がね出来てない。今朝から久富勇さんがお届けされますのに、今朝方あの、くにかさんがお知らせを頂かれのに、椿の花を一枝頂いたと。どう言う事やろうかというからね、私が申しました。あのねあのどうぞ治して下さい、助けて下さいだけの信心じゃもういかんよち。ね、もうあのね度胸をすえて、兎に角もう儘よという心で縋んなさいというて申しました事でした。
それを具体的にいうとそれこそ、死んでも儘よと是だけお縋りをしての事だから、あの神様どうぞ神様の御深慮のまにまに、おかげを頂かせて下さい、ね。椿の花というのはそれはあの、咲いた花なら必ず散る散るけれども、後にはかって石というその実が実る。あのかって石こそが、今度は髪に付ける油になるんです。言うならばその死というか、その魂の働きと言う物は、いわば信心のね髪の油に付けられる様な物が後に実るんだと。だからどうぞ助けて下さい、助けて下さいだけではもういけない。
もうどん腹据えてそして、儘よという心で、それで縋らないけないよと言った事でしたけれども。そういう信心があの出来る時に、始めて安心と言う物が生まれて来るんです。ね、もう落ち込まん様に落ち込まん様にと思うから、片っ方の端の方へこうやって、ね、だから是が悪い事じゃない。もう一生懸命お引き寄せ頂いて、もうその手すりの方へ寄って歩いておるという事は素晴らしい事。所ろがちょっと信心の油断が出来たり致しまして、この手摺から少し離れると、ね、
なんでもない時はなんでもないけど、何かが起こるともう不安でたまらない。ね、そういう例えば所の、それは一つの過程ですから、あの様々な所を辿らせて頂かねば実際解らんのです。だから辿らせて頂きながら、いわゆるぎりぎりの所は、ね、あの儘よというどん腹が座った信心。ね、そこなら例えば手摺があろうがなかろうが、落ち込もうが落ち込むまいが、落ち込んでも落ち込んだ所が。
おかげの世界だと言う風なね頂き方。ね、それこそ中村さんの何時ものあのお話じゃないけれども、ね、落ちる先は地獄であっても、そこも矢張り弥陀如来様のお懐の中だという頂き方です、ね。そこに私は生まれてくるのが本当の安心であり、所謂自我を滅却した姿だとこう思う、ね。今朝あの自我滅却と言う事を頂いたが、自我滅却と言う事は自分の思いと言う物を捨てきってしもうて、儘よという腹が出来た時だ言う風に思うですね。
どうぞ。